プロフィール

プロローグ

イタリア在住、ハーフの息子を育てるシングルマザーです。

日本ではGマーク選定商品も開発したデザイナー

イタリア人の夫との離婚を経て

子供を連れては日本に住むことが許されず

就職先の労働会社の計画倒産やパワハラによる強制解雇

その他裏切り行為などにくじけそうになりながらも

ライフ・キュレートで危機を乗り切りました。

お菓子好き、デザイナー、兼業フリーランサーで何でも屋。

「きっと誰でも自分らしく暮らせるはず」を信念に

OKASHIをヒントに情報発信。

本当のイタリアを伝えることにも使命を感じています。

イタリア暮らし

私は長い間イタリアで暮らしています。

このブログであなたは

イタリアの話

お菓子の話

何だかおかしい話などなど

旅する様な楽しさでイタリアの一部を

発見できると思います。

ライフ・キュレーターゆうこって?

私は日本を離れ、長い間クレーマ市という北イタリア・クレモナ県の

小さな街で暮らしています。

2018年の第90回アカデミー賞で脚色賞を受賞した

映画「君の名前で僕を呼んで」のロケ地になった街です。 

日本での本職はインダストリアルデザイナー。

こちらでの仕事は、ちりめんアーチスト、通訳、翻訳、日本食&日本語教師

ロゴ&インダストリアル&ケーキデザイナー、手相鑑定師

他いろいろの「何でも屋さん」

そしてライフ・キュレーター。

ところであなたは人生で起こった辛い出来事に

これからどうしたら良いんだろう?と脱力感に襲われて

本当の自分が分からなくなったことはありませんか?

これはそんな人にぴったりのブログです。

難しい事を考えずに

まずはこんな風に生きている日本人が

イタリアで暮らしている様子を見てください。

きっと前より少し楽になれるから。

どうしてこんな発信をしようと思ったのか?

だって私はその辛い経験をしたから。

イタリアで生活しているので羨ましいとよく言われます。

でも私の人生はピカソの絵のよりややこしい。(注・ピカソはスペイン人です) 

そして10年以上もイタリアでハーフの子供を一人で育てながら

何度もくじけそうになりながらも

とにかく必死に頑張ってきました。

でも数年前に立て続けに起こった辛い出来事で

鬱にならなかったのが不思議なくらいのMAXの脱力感を経験。

しかし辛かった経験も超えられました。パワーアップした自分になって。

どうやって立ち直ったか?

私が本来の自分を取り戻し、未来の自分も考えられる様になったのは

自分の人生を自分で考えながらキュレーションしたから。

キュレーションはキュレーターの作業です。

キュレーターの日本語訳は学芸員

博物館、美術館等の展覧の企画全般に携わるお仕事です。

具体的にはその分野に関する情報収集、選別・選定して展示の用意をします。

最近はWeb上においてもキュレーターという言葉が使われており

こちらは芸術、歴史分野に限定せず必要情報を選び配信します。

(参考:キュレーターとは – はてなキーワード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E5%A5%EC%A1%BC%A5%BF%A1%BC

それではライフ・キュレーター(私の造語)の説明を。

そのMAX脱力感時期に「こんな人生が一生続くのは絶対に嫌!!!」という思いから

自分の人生の情報をミュージアムの展示を見る様によく見つめて見ました。 

人生って人が生きている事=すごいデーター量なのです。

この中から選別できる良い事は必ずあります。

それをもっと有益な方向に選別、再構成したら?=キュレーションしたら?

私の今までの出来事が一つ一つ展示物だったら

どれを選択して、どのように生かして展示する?

これがライフ・キュレーターの始まりです!

ライフ・クリエーターとライフ・キュレーターとの違いは

前者は人生の創造者。

後者は自分の人生を再検討して再構築、

企画を立ち上げさらなる未来へ繋げようというイメージです。

私たちの人生はこれまでの人生の延長上であり全くゼロからの創造ではないのですから。

それではここから私のストーリーです!

日本での暮らし・幼少期

出生地は名古屋。でも湘南育ち。

生後すぐに父の健康上の理由で

母の実家のある神奈川県の湘南に祖父を頼って一家でお引っ越し。

私の現在の性格は好奇心旺盛で興味がわいたら一直線。。。かも

趣味もインドアからアウトドアや海外旅行まで。

そして剣道、茶道からモトクロスのバイクやライフル射撃まで自分で経験したい派です。

そんな私の性格形成性は幼少期に遡ります。

幼少期は湘南の祖父の会社の大きな敷地内にある住宅の一つに住んでいて

同じ敷地内にある他のいくつかの住宅には母方の叔父さん達もそれぞれ住んでいました。

私と弟も含めて7人の従兄弟と共にその地で育ちましが

他の従兄弟は全て祖父母から見て男の子の子供の内孫で

私と弟は祖父母から見て女の子の子供で外孫。

彼らの方が家訓上立場が何かと上でした。

私は従兄弟の典型的ないじめっ子の1人に泣かされる毎日。

でも私へのいじめは別の従兄弟のお兄ちゃんがいつもかばってくれました。

私はお兄ちゃんが大好きでしつこい程に付きまとっていたから

普段は構ってくれなくて(泣)

ある日「習字塾では、ゆうこちゃんは初めてなのに字が上手なんだ」と

お兄ちゃんが人に自慢していたのですごく嬉しかった。

もっとお兄ちゃんに褒められるように頑張ろうと思いました。

それからの私の行動。。。。

私の得意は何? 何したらお兄ちゃんもっと褒めてくれる?

何をしたらお兄ちゃんに構ってもらえる?

それって面白い? それをしよう。

ゆうこ、こんな事も出来る様になったんだよ。

その頃から夢中になってしまうと周りが見えなくなってしまうのです。 

お祭りのお神輿の前で一番前にしゃがんでいる当時の私

デザイン学校へ進学
物を作ることがとても好きで

高校へ進学するときは神奈川県下に2校のみの

県立のデザイン科のある学校へ進学を決めました。

通学時間は長かったものの好きな分野の勉強ができる学校生活

3年間が夢のように過ぎて行きました。

一般学科よりデザイン独特の授業の比重が多く

進学向けの学校ではなかったので

受けた某美大はあえなく玉砕。

第二希望の東京のデザイン専門学校へ入学します。

高校ですでに立体コースを先攻していた私は

何の躊躇も無く工業デザインコースへ

デザイン専門学校では

自分に納得のいく結果を出さないと気が済まない性格が幸いし

授業に熱心な態度で挑むので

先生たちに可愛がられ卒業後も交流が続きます。

デザイン学校では卒業に向けて卒業制作が最終重要課題。

私の選んだテーマは「おもちゃ」

担当先生のご指導の元、負けずぎらいも手伝って連日徹夜の制作の結果

「優秀賞」を受賞しました。

契約デザイナー

卒業制作に全力を集中したので少ししか就職活動をせずに

気が付いたら就職先もないまま卒業。

ところが卒業制作が効を発し恩師に

知り合いのトイデザインのデザイン事務所をお世話してもらう事に。

それから1ヶ月程経った時、別の先生より

多角企業の東京が本社のG社トイ事業部の就職話があり

事務所に相談した結果「是非行きなさい」と言われ転職。

主な仕事はいきなりのデザインプロデュース。

企画者、外部デザイナー、印刷業者との間に入り

時に輸出部など交えての毎日のお仕事。

思っていたデザインの仕事とは違ったけれどとても自由な職場でした。

この会社では当時デザイナーに対して

珍しかった毎年更新制の契約デザイナー制度をとっていましたが

1年後の更新時に出された条件に給料面で私が満足せず契約解消。

アメリカ留学

その後のやりたい課題の1つに英会話の修得というのがあり

面倒くさいから行っちゃえば覚えるじゃん!自分のお金で行くんだし!

と思い立ち、速攻でカリフォルニア・バークレー大学の一角で行う

英語レッスンに通うホームスティプログラムに申し込みしました。  

どんな家族の元に行くのか不安だった私のスティ先は

30代前半の新婚1年の夫婦と猫ちゃん2匹の家族構成。

大学で講師をしているテキスタイルデザイナーの超明るいロシア系のお母さんと

コンピューターエンジニアの真面目で温和なイタリア系のお父さん 

学校初日に車で迎えに来てくれたお母さんと一緒に入った喫茶店で食べた

バニラの匂いがぷんぷんするクッキーの甘ったるかった事が懐かしい。

2人のお家では朝日の入る出窓に、夏は小さなハチドリが

花の蜜を吸いに来ると言っていたのが印象的でした。

家は学校までバスで通えるバークレーの隣町のオークランド。

サンフランシスコへは学校帰りにクラスメイトと地下鉄で寄り道 

スティ先で与えられた私の家事分担は「毎日の猫ちゃんの食事係」

この楽しかった体験がこの後の海外旅行好きを決定付けるきっかけとなります。

この時は話さないとコミュニケーションが取れない状況に自分が置かれたので

観察、表現力の基礎が出来ました。

いよいよ帰国の日が来ると、別れを悲しんで泣いている私を慰めようと

「会いに行くから泣かないで」の言葉通り1回は日本に

2回はイタリアまで2人で会いに来てくれました。

デザイン講師

アメリカから帰国して、職のない私。

デザイナー以外はやりたく無いし

両親からは毎日の職捜せ攻撃。

その頃、なんとなく母校に先生を訪ねるとクラス担任だった先生に

「お前、講師やってみないか?」と言われ

「はい、私でよければよろしくお願いします。」

という事で21才でデザイン講師となりました。

頼まれたら有り難く、先ずはとことん、自分が出来る限りの事をやってみる。

※ただし自分の興味のある事に限る!

今も私のモットーの1つです。

講師初日に職員室で早めに待機していると後から来たデッサンの先生に

「君だね。今日のヌードモデルは」と言われてビックリ!

私より年上の助手さんに「こちらは新しい講師の先生です。」と言われて

恐縮しっぱなしで始まった講師生活も山あり谷ありで楽しかった。

講師時代にはある商事会社からもデザインオファーがあり

いつの間にやら夢のフリーデザイナーになっていました。

徹夜の毎日は少々きつかったですがやりがいのある仕事。

恩師で講師として同僚にもなっていた先生方に聞いた数々のアドバイス。

この時初めて月収7桁を超しました。

この頃、ホームスティ先のお父さんとお母さんが私を訪ね来日。

喜びの再会と共にまた海外旅行への欲求がわき起こります。

英語しか話せず他国語学習が念頭になかった私の希望先は

当然英語圏のみ。

そして友達を誘い、講師時代の長い夏休みを利用して2ヶ月間ロンドンに滞在。

英国の家具付きアパートを3人で借りました。 

そのうち1人からドーバー海峡を船で渡るバックパック旅行の誘いを受けます。

まさかの英語圏以外の国、フランス&イタリアへGoとなります。

せっかくの旅行なので言葉が少しでも話せたら。。。の思いから

「地球の歩き方ヨーロッパ7カ国語自由自在」をバスタブに持参で勉強。

その甲斐あってフランスからイタリアに向かう列車の中にいた

イタリア人若者グループの会話が何となく分かる様に。  

ベネチアの夕日。ローマの遺跡。イタリアンジェラート。

列車から見える果てしなく続くひまわり畑。

これが機会になってイタリアの虜になり

そして英語圏以外の国への旅行も大丈夫になりました。

企業デザイナー

楽しい筈だった講師生活も何年か経つと生徒が卒業する度に

何故か取り残された様な虚しさからの脱却と

固定収入の安定を求めて就職活動を開始。

いくつか入社試験を受け

運良く中途採用が決まったのは、ある産業部門で大手のT社

デザインチームで朝8時から毎日残業のOL生活が始まります。

初めてのOL生活。会社の制服。ボーナス&固定収入にワクワク。

会社でのデザイナーの本当の仕事の仕方をこの時体験します。

会社に入ってからはいくつかの大きなプロジェクトを任される事になります。

そこではGood Designマーク選定出品商品の開発にも関わりました。

OL時代の仲の良い同期が海外事業部にいました。

早速出たのは海外旅行計画!

香港、オーストラリア、フランス、スペインなどなどへGo!

この会社は韓国とタイにも工場があり、同期の2人がその担当。

どちらも事前の連絡をすると

飛行場までの送り迎え&特別レストランのご招待

現地の遊び場への送り迎えのVIP扱い

美味しい思いも出来ました。

  

ちなみにタイではシャングリラホテルのスイートにチェックイン

OLの財力には自分でもびっくり!

実家から通勤のOLとして金銭的余裕も生まれ

楽しかったイタリア旅行を反芻する毎日

ある時、先輩とのおしゃべりで

「あそこのカルチャーセンターでイタリア語教室をやっているの知っている?」

と言われたのを機会に

毎週のイタリア語のレッスンに追われる日々が始まります。

折角イタリア語を習っているんだからと第二回目イタリア旅行を計画

「ベネチアのカーニバルの花火を見る!」がメインテーマの基本バックパック旅行。

乗り気だった友達と2人で行く筈でベネチアのホテルまで予約したのに

まさかのドタキャン

「かわりに私が行きたい!」と母が名乗りを上げます。

初めての母娘2人の旅行は海外イタリア。

ミラノ、マントバ、ベネチア、フィレンツェ。。。。 

様々なアクシデントも含めて10日間全てが夢の様な出来事は

今も私の心と写真に焼き付いています。

その体験は私にとってイタリアを特別な物に昇華させて行きます。

イタリア人の彼と結婚

気が付けば中堅OLで毎日夜の10時まで残業の日々。

両親からは結婚はしなさい攻撃の毎日にうんざり。

その後付き合っていたイタリアの彼との結婚。

海外に慣れている私がイタリアに住みはじめると

「ゆうこ、自宅で日本語教えてみる?」と頼まれて始めた日本語レッスン。

結局、日本語をイタリアで教えた事で私のイタリア語は上達しました。

この結婚については

父は「この機会を逃したらこの子は一生結婚しないわよ」の

母の牽制攻撃で反対意見が早くも撃沈。

母は「もしあっちに住んだら私が会いに行くわよ」と大らかにコメント。

既に結婚していた弟は「姉ちゃんの好きにすれば」で円満に進みました。  

思い出深いイタリアの教会で挙げた結婚式

人生で1番大きな買い物・マイホーム購入

そしてOL時代の貯金を使いキャッシュでイタリアにマイホームを購入。

値引きしてくれるって言うし&お金持ってたし。

最終的にはこの買い物が

その後の厳しいイタリア生活から私と息子を守ってくれる事となるのです。

ちりめん細工展

待望の息子も生まれた年に

「ゆうこ、ウチのお店の中庭でちりめん細工展をやってみない?」とのオファーが。

「 はい!是非やりたいです!」

ちりめん細工作家でもあった母からイタリアに住むと決まった時に

何かの役に立つのではと教えてもらったちりめん細工。

趣味でちまちまと作っていたのが友達の目に止まり作品展となりました。

当時、生後4ヶ月の息子のお世話をする傍らの第一回目の展示会の用意。

それからも2年ごとに開催の運びとなり

他の場所でも展示会を開く機会に恵まれ

今ではホームページもあります。

http://achille226.wixsite.com/yucrema/chirimenzaiku

 

離婚

マイホームもあり、息子も順調に育ち、幸せだったハズの結婚生活が

ある日突然予告も無く崩れ落ちます。

「別れたい。ボクはそんなに収入が無いし、家は君の物。僕は失うものなんて何も無い。」

と実家に戻ってしまう彼。

あんなに仲良しだったのに。

今でも本当の原因がわかりません。 

イタリアの市役所、イタリアの教会、日本の式場の3回も結婚式挙げたのにね。

あっけなかった最後でした。

せめて子供のために養育費ははっきりさせようと裁判を起こすと

当時は息子が幼稚園に上がる前の3歳で私は無職でしたが

養育費を含め私への支払いは日本円で月に3万円弱。

さらに裁判官から海外逃亡の恐れがあるのでと

一方的に息子の日本のパスポートが没収され

この先の別居にあたって固定収入が無い場合

息子との同居権利を剥奪すると判決。

貯金無しのシングルマザー・イタリアで外国人工場労働者として働く

3才の息子を持つシングルマザーで無職で貯金無し。

ヨーロッパ共同体外の外国人で身寄り無し。

住んでるところは小さな街で車無し。

と不利な条件のオンパレード。

唯一あったのは借金も無いマイホーム。

何が何でも仕事を見つけなくてはと

糸より細いツテを使って見つけた仕事は

化粧品梱包の下請け会社の低賃金労働者

「ゆうこ、これしかないけどやる?」

「はい!何でもやります」

パートタイムを受け入れてもらえず

たった1人で育児と家事をしながら

イタリア人や発展途上国の同僚に混じり8時間の肉体労働。 

帰って来ると10ページにも及ぶ翌日◎要返信の

夫との裁判に向けてのFAXが弁護士から毎週あり

そんな状態が何ヶ月も続きます。

肉体的にも精神的にもヘトヘトになって

ある晩、泣き出してしまった私を見て息子が心配して

「おかあさん、大丈夫?」と訪ねます。

「おかあさんはもう、どうして良いかわからないの。あきちゃん小ちゃすぎるし」

それを聞いた息子はキッチンの椅子の上に立ってニッコリし

「ほら、あきちゃん小さくないよ!」と両手を広げ言いました。

私の中でつかえていた何かが溶けて行く瞬間を感じました。

泣いたままでも笑顔を取り戻す事が出来て

思わず息子を強く抱き締めていました。

私の大事な宝物の1人息子。

こんな素敵な宝物を私の手元に置ける幸せを心の底から感じました。

強さをもらった私。後戻りの道もなく強くなるしかなかった私。

弁護士の毎回の長文通信文を読解し回答しながら

私のイタリア語学力はさらにパワーアップしました。

そして働きながら様々な国の人達と友達になります。

まさかの計画倒産・給料&児童手当踏み倒し&退職金差し押さえ

何年か働いたその工場の仕事が6ヶ月分の給料と児童手当を踏み倒し

長年の積み立て退職金を差し押さえて閉鎖します。

表面上は経営不振。事実上はイタリアでは良くある事なのですが

法律を上手く利用した経営者が一気に莫大に稼げるための計画倒産。

2年間続いた再就職先上司のパワハラと契約切れの名の解雇

その時介入した外部労働組合によりロンバルディア州の

再就職プロジェクトで他の同業の新会社へ再就職が決まります。

同業種なので化粧品梱包会社の労働者

この時、日本にもしも将来帰れる時にイタリアならではの手に職があったらと

パティシエの夜間コースへ2年間通う事を決意。

とにかく色々あったのですがこの職場は驚く程に人間関係の環境が悪く

外国人の私は格好のターゲットになり直属上司の強烈なパワハラと

それに便乗した同僚たちの差別が2年続き、その後契約切れと言う名の強制解雇。

信用している人から利用されて裏切られる。

年老いて行く両親を訪ねるために

出来る限り行く様にしている里帰りで

「日本にいる時イタリアのデザインについて講義してくれる?」 と

恩師から母校での特別講義のオファーを受けます。

そうして何年かは里帰りごとにしていた講義でしたが

ミラノにデザイン事務所を持つ学校の後輩にその事を話した所

次の年から私の講義はなくなり、彼女の講義となっていました。

向こうは裏切るつもりは無かったのかも知れないけれど。。。。

 MAXの脱力感・私の人生は人の踏み台になるだけ?

最後の職場で受けたパワハラは経済的にも精神的にもダメージが大きく

追い打ちをかける様に信頼していた人から利用された挙句の裏切り。

「自分は人の踏み台になるだけの人生」の様に思えてMAXの脱力感。

そんなことが死ぬまで続くのは絶対嫌だった。。。。

そこで始まった自分のできることの模索。

ずっと続けてきたスイーツの世界へ仕事探しにトライ。

創作活動のホームページ作り。経済と投資の勉強。ネットビジネス方法の検索。

クラウドシステムで働き方探し。

同時に自分の考えを塾考。

どうしてそうなったの?

何ができるの?

何が嫌なの?

何がしたいの?

どうなりたいの?

自分って何?

信頼できる人はここに

失業率が高く就職難のイタリアで都市から離れた小さな街。

若く無い私。貯金を切り崩して生活していく毎日。

そして最大の脱力感の原因は家族のように「信頼できる人」がいなかった事でした。

親身になってくれる友達はイタリアでもいっぱいいます。

でも彼らにも家族があり当然ながら限界があります。

私のイタリアにいる家族は未成年の息子だけ。

そしてMAXの脱力感とある種の人間不信になった私が

「絶対裏切らないある人」がいつも私に寄り添い

どんな時も支えてくれていたのだと気が付きました。

その時その人に恥ずかしくない生き方をもう一度頑張ろうと決意。

それは「過去の私」。

2年以上の失業状態でもローン無しの持ち家があり

普通に生活ができる経済状態を保っているのは

「過去の私」が今の私を支えてくれたから。

元凶の理由がわからず突きつけられた離婚の現実と向き合い

元夫の家族に対立し

彼からはわずかに受け取れるはずの養育費も滞り

イタリアでの離婚に向けてのいくつもの裁判。

就職先で受けた数々の差別。

給料を踏み倒されての会社の計画倒産。

それでも幼稚園に上がる前の3歳だった息子を日本語も流暢に話せる様に

イタリアで、たった一人で必死に育てた。

たくさんの親身になってくれる友達や新たな知り合いが生まれる中

様々な挑戦を止める事なく

「未来の私」のもしもを支えるために

少ない収入の中から貯蓄までした「過去の私」。

もちろんその間も頑張れたのは、毎週の様に心配し連絡をくれる実家の家族。

応援してくれたイタリアと日本とアメリカにいるたくさんの友達の存在。

そして最愛の息子。

でもその全ての存在は「過去の私」が頑張ってきたおかげ。

ライフ・キュレーターの私 

そんな「過去の私」に恥ずかしくない様に

今度は未来の私を支えられる様に生きて

まわりの人たちも支えたい。

そこから生まれた私のモットー『私もまわりも気持ち良く』

モットーを未来に繋げるために生まれたライフ・キュレーターゆうこ。

人生のバージョンアップを図るため

今ある自分を再構築中。

だから、あなたが人生で起こった辛い出来事に

これからどうしたら良いんだろう?と脱力感に襲われて

本当の自分が分からなくなってしまったら

私のブログに遊びにきてください。

難しい事を考えずに

まずはこんな風に生きている日本人が

イタリアで暮らしている様子を見てください。

この中では

イタリアの話

大好きなお菓子の話

何だか おかしい話

ライフ・キュレートなどなどを

イタリアから発信して行きます!

 

特にイタリアに興味がある人には

旅行する様な楽しさでイタリアの一部を

お見せできると思います。

 イタリアと日本の正しい架け橋に

私の今後の計画では

イタリアに住んでいる私ができる

「イタリアと日本の正しい架け橋になる」というビジョンを描いており

まだまだ発表はできませんがすでに着々と進行中です。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする